その時は親父のしかめた顔の意味が理解できなかった。
当時(18年ほど前か)、国内屈指のデザイン駅として有名だった京都駅で
親父はワタシを嬉しそうに迎えてくれた。
その数分後、待ち合わせたように10数メートル向こうからデカい身体を揺らしながら
男がワタシに手を振り、そしてこちらに近づいてきた。
親父は眉間にしわをよせた。
実は、高校の同級生が関西近辺で仕事をしておりワタシは何を思ったか、その親父との再開日に合わせて一緒に京都観光を楽しむか?と
事前に打診をかけていたのだ。
親父は最初何が起こったか理解できていなかったがワタシがくどくど説明すると
しょうがなしにタクシーに乗りやがれ、、、という
雰囲気で運転席へ勢いよく乗り込んだ。
誰が悪い?
そうだ、ワタシだ(笑)
せっかくの親子水入らずの限られた時間をそぐような考えを何故行ったのか?
そうだ、ワタシは数年ぶりの同級生との再会と
これまた数年ぶりの親父との再開を両方味わいたかったのだ。自分よがりの行動だ。
友人も若干の気まずさを醸し出しながら京都観光を一緒に楽しんだ。
楽しんだふりだったのかもしれない。
流石にその日の夜、友人は親父の社員寮に泊まる事はしなかったが
親父は次男坊が俺と酒を飲みたいという気持ちをこちらの予想以上に汲んでくれて
ヘネシーのXOというブランデーを用意していた。
実は親父は酒をやめていた。
けど、ワタシに、友人に、共に付き合ってくれた。
一杯だけ、一杯だけだったと思う。
俺はもう寝るから、、と床に就く親父の背中を見ながら友人もそそくさと帰っていった。
こうやってブログを書き出しながら若干の後悔の念がよぎる。
二人でしか話せない事があったかもしれない。
二人でなら酒がすすんだかもしれない。
次男になら話せる事があったかもしれない。
川崎から新幹線で飛んできたワタシの気持ちにもっと応えたかったかもしれない。
振り返りながら肝心な所で空気を読まないある種の図太さはこの頃からにじみ出ていたんだろうな。
それから数年、本土での様々なお仕事にも一息つき、ワタシ・親父共々沖縄へ戻ってきた。
親父はタクシー運転手、ワタシは介護タクシー運転手として共に働いた。
朝は4時半起床を頑なに守り続け、仕事バカの親父は一日たりとも休むことなく出勤した。
「おっと~は仕事に遅れたり、休むことは嫌いなんだ。」と、
褒めてほしいの?というくらい事あるごとに自慢げにつぶやいていたっけ。
ワタシのリアクションは、
ふ~ん。
以上だった。
すごいな~!なんて褒め倒すのも恥ずかしいし、
何だか親父を賞賛する気になれなかった。
そこまでの人生を歩む中で親孝行したいときに親は無く みたいな
どこの誰がつぶやいたかわかんない格言を何度か耳にしていたのだが、
それはそれ、
親孝行なんてまだまだ先の話だ、ワタシが家庭を構えて孫でも出来たら、
ぐらいのときで構わないだろう。
数年が経つ。
早朝の予約客を目的地まで送り届け、迎えの時間まで7時間も余裕があるため
一時帰宅を決めたワタシが復路を走らせていると、
右前方から黒く艶光ったカラスがワタシの前方の視界をさえぎるように
2,3秒ほどガーガーとわめきたてた。
突然の事に驚くも、うるせぇ、あっちいけよ!の独り言が効いたようでカラスはその場を飛び去って行った。
車の免許を取得して16年間、そんな出来事は初めてだった。
ワタシは家に帰宅、4時間の休憩を済ませ、さぁお客様を迎えに行こうと玄関を出、
右手にある倉庫に何気に視線を配った。
親父がうつぶせで倒れていた。
何で倉庫が気になったんだろう。
その日の青空は透き通るように澄み渡っていた。
まさに南国沖縄を象徴するかのような雲一つない青空だった。
あれから4年余。
あの黒光りカラスとあのスカイブルーはどう考えたって組み合わせ悪いよなぁ、
なじまないよなぁ、と思いながらあれ以来、
第六感の片鱗も感じさせない空気の読めないワタシは
1人、カラオケボックスでお気に入りソングの
JAMを熱唱したのだった。
空気の読めない採点マシーンは充実感にあふれたワタシに対して
75点のジャッジを下した。