中華思想、つまり、中国こそが世界を治めるに相応しい・この世の頂点であり・この世の華であるという思想の下に、かつての琉球王国・国王も中国皇帝からの任命を受けなければ、
独立した国の王とは認められなかった。
介護タクシー運行を終え、チョイ遅めの昼食を摂ろうと食堂で沖縄そばを注文し、基地がらみのページは音速の貴公子アイルトンセナ並みに斜め読み速読で新聞をめくっていくと、視界に飛び込んできたイベント広告ページ。
冊封儀式の再現イベントがこの度、沖縄観光地としてにぎわう首里城・御庭(うなー)で執り行われるという情報を見るにつけ、何だか確認しておきたいという衝動に駆られて介護タクシーをすっとばして現地に駆けつけてみました。
琉球王国成立までの争いは武力ありきのガチンコ対決
言わずもがな。
琉球国民もその遺伝子を受け継いできた沖縄県民も、争いを好む戦闘民族でも無く融和で平和を愛する人種であることは、私が今更申すまでもないくらい全世界の人々に浸透している事実ですよね。
とはいえ、琉球が北山・中山・南山と3地域に分かれていた過去において、15世紀初頭に南山王・巴志が武力でもって制圧・三山統一を果たし、その後、息子たちが王位継承を争う血みどろの争いがあったり(志魯・布里の乱)、時を経て
勝連グスクの英雄 阿麻和利が野心を抱いて第6代国王泰久を抹殺して国をぶんどろうとするものの、危機を察知した泰久は娘 百渡踏楊(ももとのふみあがり)を政略結婚させ、ワシの娘きゃわいいから熱を冷ませよ作戦で阿麻和利の怒りを鎮めさせ、
念には念を入れて、グスク造りの名手でもあり泰久に忠誠を誓う武将 護佐丸を中城グスクの按司に据え置く事でそう簡単には首里城へ侵攻させませんよ、という策略をはりめぐらすなど、
自分の利益の為には家族も敵地へ売り飛ばし、時に裏切り、命を奪い合い、歴史が積み上がっていくという部分においては、琉球民族だろうが沖縄県民だろうがやる事はやってきたんですよね。
大切なものを守るためには相手を傷つける事も厭わない、厭わなかった。
話し合いではらちが明かなくて暴力で優劣を決定していく、決断せざるを得なかった。
歴史とはキレイごとなしに淡々と進んでいくのです。
歴史と武力・暴力はセットなのです、悲しいかな。
何の話でしたっけ?
ああ、冊封体制でしたね。
琉球が王国たるには、当時の明・清(今の中国)の皇帝からお墨付きをもらわないと独立国として認められなかった、
もっと言えば、中国皇帝の属国として認められたいなら国王が変わるたびにうちらに申請してきて頂戴アルね
というルーティーンが統計22回も行われていたんですね。
この一連の歴史的流れを冊封体制、中国皇帝から任命を受けるために執り行われる儀式を冊封儀式と呼ぶそうな。
因みに、第一尚氏王統 初代国王・巴志は冊封体制を受け入れる事で【尚】という姓を中国皇帝より譲り受け、尚巴志と名乗ったんですね。その名残が第2尚氏王統~琉球処分を受けるまで連綿と受け継がれていくのですが。
そんな冊封体制にあった琉球王国は中国・皇帝からの使者たちをどのように迎え入れていたのか。
歓会門~瑞泉門~漏刻門~広福門を経て下之御庭にて
車椅子ユーザーを連れて首里城へご案内する際、守礼の門をくぐってダイレクトに下之御庭(しちゃぬうなー)へつながるスロープ遊歩道を利用するのですが、
健常者が首里城観光のガイドを受ける際、守礼の門をくぐった後に案内されるのは歓会門。
こちらが首里城の正式な入口であります。
その名称も中国皇帝からの冊封使一団を歓迎する・もてなすという意味合いだそうな。
下之御庭(しちゃぬうなー)にて
冊封使一団が通るスペースを見下ろしながら、今か今かと待ち構えておりますと。。。
新聞告知効果なのか、ホームページサイトを閲覧しての来場なのか、毎年通例のイベントが浸透したが故の結果なのか、
インバウンド観光客(中国・韓国・欧米系)が多数見られました。
逆に言うと、沖縄県民はそれほど確認できず。
右奥から、来来キョンシーズを彷彿とさせる辮髪の長髪をたなびかせ、冊封使・一団がジワリと近づいてきます。
んー。
荘厳と言うか絢爛豪華というか。
天天・スイカ頭・チビクロ・トンボのどたばた喜劇【幽玄道士・来来キョンシーズ】
をリアルタイムで見ていた私は、このいでたちの彼らを目の当たりにすると、意味もなく息を止め・御札をおでこに貼りたい衝動に駆られるのです。
幸い彼らは生存者でありました。
左手に見える建物は奉神門。
首里城正殿にある御庭(うなー)へと繋がる最後の門です。
入口は左右・中央と3つあるのですが、身分の高い琉球国王や冊封使らは中央を通り、その他の役人は左右の門から出入りを行ったそうな。
寒風吹きすさぶ首里城正殿前・御庭(うなー)にて冊封儀式
冊封儀式・再現当日、大雨が降りそうで降らない・時折突風が吹き付け、場内に設置されていた音響設備・各種建造物にダメージを与え、もしや中止になるのでは?と心配でしたが。
予定時刻より10分おしくらいで冊封儀式は無事に決行されました。
奉神門にもたれかかる見物客の立ち位置は通常、車椅子ユーザーの通行路でもあるのですが、年に一度?の再現儀式という希少性からか観覧場所を確保しようとそれぞれが、マナーと自我のはざまに揺れながらしのぎを削っておりました。
因みに、こういった大型イベントでの車椅子ユーザーのご案内に関して、ガイドが躊躇したり遠慮がちに周囲に気配り目配りばかりしていると、あっというまにベストポジションの観覧席を奪われてしまいます。
やや強引に少しワガママに最前列にご案内するのが私の観光ガイドポリシーです(笑)
決して迷惑をかける、という意味合いではありませんで。冷静と情熱の間を上手く狙うんですよ。
首里城・北殿から南殿に向けての位置から
少し移動してみました。
今回の儀式は、1800年の記録を基に再現されたそうで、画像の国王は第2尚氏王統・18代国王の尚育か19代国王 尚泰 どちらかと思われます。
↑ ↑ ↑
冊封使・副使から琉球国王へ、中国よりもちよった絹織物が贈られています。
その前後では「詔書」「勅書」といわれる任命書が読み上げられ、それらの手続きを経て晴れて琉球国王は正式に「王」と認められるのです。
これらの儀式を一通り目を通して率直に感じたのは、「まぁ、退屈な儀式」という感想(苦笑)
一つ一つの動作・所作や歩行速度もゆるやかでじっくりと確実に執り行われるもので、
- 拝謁して
- 楽器を奏でて
- 書物を読み上げ
- 贈呈物を頂き
- 何度も何度も頭を下げ
(順不同)
というルーティーンを繰り返す事こそが意義深いもので格式を高めるという意味合いもあったそう。
今回の冊封儀式もだいぶ端折って1時間ほどの時間を要したので、正式なプログラム通りに沿って行うとおそらく3時間~5時間は必要だったでしょうね(笑)
正直飽きてきたんで帰ろうかな、、なんて思っていると!
めっちゃ近づいてきますやん!
たまたま移動した場所が琉球国王、冊封使・正使 副使の帰り道だったとわ!
動画も撮らんと!
ドアップでイケメンぶりもおさえな駄目さぁねぇ!!
毎年公募される琉球国王も、体格が良くて身長170センチ以上という応募資格を条件としているせいか、それなりに雰囲気醸し出してますね、ました。
首里城は年間を通じて無料で見られるイベント・有料イベントなど多数行われていますので、公式サイトをこまめにチェックしてみてください。
勿論、介護タクシーめぐりの方でも首里城へのご案内・その他観光地へのガイドも致しますので何時でもお気軽にお問い合わせください。
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以上、フェラガモがお届けしました。